木曜日

とてとて 9

朝からぼんやりしている 洗濯物を干して、部屋をすこし片付けたくらい。
明日は金曜日なので雨が降るかもしれない、すこし街に出て済ませてしまいたい用事がある。

佐々木倫子さんの「動物のお医者さん」という漫画、両親が買ってくれてちいさい頃からすきだった。この前BRUTUSのバックナンバーを読んでいたらその漫画の一コマが紹介されていて、懐かしくなった。今年の1月から毎月、新装版が1巻ずつ発売されている。もうすこしお金に余裕ができたら買いそろえたい。

実家の猫が体調を崩した。母から送られてきた動画の中で、かのじょは点滴を打たれながらちいさくなっている。いつか愛猫の死に目に遭うということ(もしかしたら遭うことすらできないのかもしれない)。世界のじかんがとまってしまえばよい。さいきん、SFみたいなことばっかり考える。
いつか、だいすきだった猫が死んでしまったとき、そばにいてほしいと思うひとがひとりだけいる。それは、ふつうなら人生で最優先されるような恋人とか兄弟とか親友とかいうわかりやすいひとではない。そういう誰かをとくべつと言うのかもしれない。猫の死んでしまったかなしみを隣で見ていてほしいひと。

誤魔化すようにお茶を入れる。差し入れでもらったクッキー缶を開けたり閉じたりする
かもめ食堂をまた観ている これで今年に入って6回目だ。
かもめ食堂のかもめのイラストは牧野伊三夫さんが描いたものらしい。やさしいひと、やわらかいひとを今日もひとりで想っている。

無限にかなしくなれてしまうよ 全部いやだ、ひさしぶりに家族からの着信にも応えられずにいる、連絡もかえせない、そっとしておいてほしい、だけど、世界のこと、世界に生きる命のこと こんなにも大切におもっている。

水曜日

とてとて 8

いつもの授業、吐き気と目眩。この空間がほんとうに苦手。

校舎の最上階、窓のある階段を降りるときにずっと向こうで海がひかってる。この学校からだって海が見えるんだ。やけに今日は緑がきれい。

講義を終えて、心から血が出るような思いで、吐き気とのどのつっかりを気にしながら歩く。すきな語りかたも苦手な語りかたも無造作に行き交うから、大学というあらゆる場で耳が耐えられないのだと思う。そんなにぎゅうぎゅう言葉を詰めたってなにも伝わらないのに、なんて思いながら議論の傍観者でいる。どうして学生なんてしているのだろう、ここでは人と本の読み方について強靭に語り合って目を輝かせることが絶対的によいことみたいでくるしい。

多分、ムクさんがまた病気になった。尾鰭に白い雪の塊のようなものをつけて泳いでいる。水槽に戻ってきてまだ1週間も立っていないのにね かわいそうだけれど、また塩浴に戻る 入退院を繰り返す子どもみたいでほんとうに不憫だ、わたしがしっかりしなければならないのに。

くるしい 誰か、って言いたいけれど、誰かがきてくれたところで根本的には解決しない。

プールに行きたい。うちからプールはあまりに遠いし、水着もないから、以前節水用に買ったビニールプールをベランダに運んでみようか ひとりきりの部屋でプールの後の気だるさに身を任せて、麦茶を飲んで眠りたい、なにもかもが敵だ、どこもかしこも戦場だ。

火曜日

とてとて 8

なんだかわからないけれど過食気味だ。
雨の日の焼きそば 夕暮れには吐き気
今日は朝からずっと雨が降っていて、学校は2限しか受けられなかった。すきな喫茶店が一年ぶりに開店したのだけれど、こころがあのお店にいくことを拒んでいた。

家に帰ってきて、雨の音を聞きながらベランダで本を読む。おいしくないビールを飲む。今日は飲まなくていいって体が言っているのにやけになって飲んでしまう。明日からはやめる。

じぶんのすきな人とすきな人を会わせるとき、そのふたりが仲睦まじそうにしているのを見ると途端にじぶんだけいなくなりたいと思う。わるい感情ではなくて、むしろほっとする。相手の中心に私がいなくても、私はその子のうれしそうな表情を見ていられる。その子のかなしみ、よろこびに無関係でいられることに安心してるなんて、かなしいことだ

岸政彦さんの「図書室」を読んでいる。図書室で、男の子と女の子が人類が滅亡して世界でふたりだけになったときぼくらはどうしようって話し合っている。その文体、会話、なんだかじぶんまで世界が終わるときのことを考えてしまう。でもベランダでは車の音や、「また明日」って手を振りあう子どもたちの声、犬の鳴き声が聞こえている。救急車の音は、血のつながりもない人びとが、誰かを助けたいという思いで必死にうごく音。そう思うとさみしくない、こわくない

目を向けようと思えば、死にたいともだちのこと、怒るひとのこと、すきだった子のこと、すぐわかるけれど、今はもうなにとも繋がっていたくない。歩きながら考える。じぶんが音楽をしている人でなかったら、Youtubeをしているひとでなかったら、知り合いの娘でなかったら?だれも私を思い出さないのかもしれない、わたしの内側を知ろうとなんて思わないのかもしれない

傘をさしてスーパーに行く。麦茶とこんにゃく、卵を買う。すきだった子に手紙を書く


月曜日

とてとて 7

かなしい。かなしくて呼吸が浅い。そよ風でもろもろと崩れていくこころ
大学ではいつもどおり、怯えながら無防備な身体を椅子に預けている。退職してから言語の研究をされているという女性とお話をした。やわらかくて誠実な方だと思った。私からは相変わらず、中身のあるようなことばはなにひとつ出てこない

死にたいともだちに寄り添うにはどうしたらいいのか
たとえば自分が、木の幹のように芯の通った人で、お金も時間もなくたってその子のこといちばんに救いたいってほんとうに思えたなら。優劣を越えて自分の意識の内がわへ流れてきたひと全員におなじように歩み寄れたなら

純粋さをどこまで大切にするか 感情の純度にとらわれてなにもできないことと、妥協しつつ諦めつつ時に利口的であったり同情的であったとしても壊れるまで人のためにうごくこと どちらもまちがっているような気がする。私はというと、ひとつずつうごくこと、ひとつずつ歩み寄ることの大義さや不確かさに面くらって、じぶんが乱されることを恐れて、なにもできずにのうのうと生きていて、話にもならない

とてとて 6

体調を崩し、精神もこわしてから、実家のとなり町で安く供給されている海洋深層水というものを両親が送ってくれた。ミネラル豊富で、さまざまな不調によく効くらしい。届いてから毎朝飲んでいるのだけれど、そもそも大容量の酒パックに入れられていたのでなんだかお酒くさくて、だいじょうぶなのかなと思わなくもない。朝から酒気を帯びているような気もするからだで、自分なりに真剣に生きている

摂取活動はなかば信仰の問題なのだろうと思う、すがるように、祈りながら、泣きながら、よくなってくださいって念じて食卓に向き合う。おばあちゃんとおじいちゃんのお祈り姿がこころに浮かぶ

ゆうべ、お風呂にお湯をためながらヨーヨーをつくった。ヨーヨーは水風船とちがい風船内の空気と水のバランスが肝心であることを学んでわくわくした。口の閉じかたにも工夫があって、左手で口を押さえつつ右手でゴムをすばやく括りつける仕草は自分でやっていてもうっとりする。ヨーヨー屋さんになりたい

おととい、おばあちゃんから詩集といちご、夏みかんが届いた。おじいちゃんからは庭の花々を束ねた花束が添えられていた。バラやパンジー、マーガレット、それからむらさきの金魚みたいなお花はなんだろう。庭で摘んだ花を束ねて贈る。おじいちゃんにとってはあたりまえなのかもしれないけれど、私にはそのことがずっと特別に思える。厚みのある花束をすっぽり受け入れてしまえる花瓶が必要になったのは、その日がはじめてだった。夢の中で、今暮らしているマンションの玄関口にとりどりの花が咲き誇っているのをみた。青いとりのような名もない花がきれいだった

木曜日

とてとて 5

朝からホットケーキを焼いていた。テレビでEテレを流していて、やけに鶯のきれいな声が聞こえてくるなあと思って野鳥の番組だろうと目をやったら政治の話をしていた。鶯が鳴いているのはテレビの中ではなく現実の窓の外だった

ホットケーキは全然ふくらまなくて、表面はかりかりで、なんだかちがう食べ物みたいになってしまった。温度がよくなかったのだろう
脳が五つくらいあれば、 三島由紀夫も江國香織もいしいしんじもカフカも孔子も一気に読めるんだろうとか思う日もあるけれど、一つしかない脳でも本すら読めないほど不安に怯えてぐるぐる考えてしまうのだ 脳がいくつあったってなにも豊かにはならない気がする

信じた人のことばをずっと追っていたい。たくさん本を読んで安らかでいられる人は、それだけことばに対して自己を預ける柔らかさ・おおらかさ・深さに長けている と言ってもいいのかもしれない。私は、朝日が眩しくて目が痛くなるみたいにことばに対して受け止めきれなくなることが多いから、騙しだまし本と暮らしている。紅茶を飲んで、いい椅子に体育座りして、そっと1ページ読んだら、ベランダで空気を吸う。

手の届く距離に信じられることばを持つ人がいてよかった。信じられることばを持つ人が自分のために書いてくれた手紙を何度も読みかえす。私もそろそろ手紙が書けたらな

水曜日

とてとて 4

寝ても覚めても、誰と居ても居なくても、ずんと心が重たい。石化している。やさしくなれない

今朝もムクさんを見ていた。尾鰭が細菌のせいでギザギザに切り刻まれていてかわいそう、くらいバスルームの片隅にエアレーションのモーター音が響く。見た目こそ痛々しいけれどまだ持ち堪えている。今朝も、しずかに愛らしく泳ぐ姿を見せてくれた

学校にやってきて、講義棟のエレベーターが点検中で、最上階まで階段を登った。汗ばんで鼓動がはやくなって、こんなに澱んだ心持ちでもきちんと脈を打つ自分の身体ってふしぎだ。
お昼は久しぶりに学食でカレーを食べたけれど、自分の作るごはんと同様にあまり味がしなかった。空腹を満たすだけの、感動のない摂食活動

星野道夫さんの写したホッキョクグマの写真、どれもやさしく美しく、泣きたくなってくる。
まだお腹がいたい、帰りもきっとビールだ
きょうもかなしい日

とてとて28

ゆうべ友だちと話していて、「なんだかすごく覚えてる」もひとつの感情なのかなと思った。 彼女たちは記憶と感情がいつも明確に整理されているというか、感情のつまみを引いて記憶を取り出すような話しかたをしていたのだけれど、私は思い出したなにかがうれしかったとか悲しかったとかではなくて、た...

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