水曜日

とてとて 12

身体が歪んでるなあと思った矢先に骨盤を痛めてしまった。のそのそと歩く。不調が絶えない。

江國香織「なつのかおリ」を読み終えた。長く眠ったときの、不可解なのになぜか受け入れるほかない、心地のよい夢のようなそんな読書時間だった。
最近は分厚い文庫本を持っていないと落ち着かない。腰が痛い。

 お花見は午後じゅう続き、みんなおそろしくたくさんのバチャランを飲む。夕方にはほとんど立てなくなっているほどだ。それで、その日は食事もせずに、それぞれの部屋に引き上げて眠りこむのが常だった。
 春の日、私たちがまだ家族みたいだった頃。

教室のうしろのほうで、穏やかな教授の声を聞いて窓辺をながめていたとき、きゅうに春とも夏ともつかない季節の風を感じた。そらの色は淡くて、時鳥の声はくっきりとよく響いている。青春時代と呼べるものが私にもあるのだとしたら、それは街へ移り住んだ14歳からの数年間のことだと思う。光の中に群れあって、水晶のような汗を流して、右も左もわからずにただ人を信じていた日々。

身体の中心から、今までずっと忘れていた血の巡りを感じて、涙がこみ上げてきて、あわてて友だちや母親に連絡する。中学の頃に使っていた部活シューズ、ラケット、ウェア。偶然すきな子に鉢合わせる放課後だったり、外周ランニングであこがれる人が先をゆくまぶしさだったり、大会の日の朝の涼しさだったり、お昼休みの眠たさだったり。
あの頃はお酒もギターもひとを呼べるような部屋もなかったのに、毎日、自分のことや周囲の人たちのことがとにかくすきで、毎日ぐっすり眠って、素直に目を覚ましていた。親以外の年上のひとびとを、憧憬とも恋心とも信頼とも言いきれない気持ちでまっすぐ見つめていた。

市民体育館に行きたいと思った。
さらさらとした運動着を身にまとうときの高揚感や、体育館に反響するシューズの靴底の音や、素肌が床に触れたときのひんやりとした感触。いまさらそんなものを手繰り寄せても私の現状は変わらないのに、あの頃に近い空間で、うっとりとしていたくて堪らなかった。あの頃すきだった自分やあの子の面影。今になって、燃えるように生きた日々がこんなにも恋しくなるなんて、私はやっぱりどうかしている。

トッポを買って一息に食べた。気分も体調もよくないけれど、うわの空でみずみずしい日々に浸っているじかんは、避暑地のように風通しがよくてきもちいい。



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とてとて28

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