「パーマネント野ばら」を観る。
母のすきな映画のひとつで、なんとなくの温かい空気感だけを予感しつつ鑑賞した。おもっていたよりも陰があってひんやりとした作品だったけれど、痛いくらいに誰かを愛する女性たちの姿が心に残る。エンドロールをとおくで聞きながら、ベランダに出て、あとからあとから涙がでてきて。また世界にひとりっきりみたいな朝だった。ベランダでハンモックチェアに揺られていると、いとも簡単にこころの中の日常を切り落としてしまう。
雨の気配を感じるたび、パーカーのフードをかぶってベランダへ出る。柵に打ち付けられてこちらへ跳ねてくる雨の飛沫を、うれしくなって浴びる。死にたくなりながらいきいきしていてふしぎだ。
「パーマネント野ばら」で菅野美穂がすきな人と温泉に行く約束をして、いそいそとひとり先に向かうシーンがある。鈍行列車のボックスシートにひとりで座る。窓辺は日のひかりに溢れている。その光景を見て、鈍行列車で日向を見つめながらすきな子に会いに行ったいくつかの日のことを思い出した。
すきなひと。もうすきでいるのに疲れたひと。日々はかなしいほど彼へのあこがれだけでできていた。かんぜんに切りはなせる感情など人生にひとつだってないのだということを、このところ思い知る。
「過去」は、命日のようにわかりやすい決定的な終点もなくいつの間にか「過去」になる。今あの子をもうすきではなくても、誰か他にすきなひとができても、あの子をすきになった気持ちはきっといつまでもかわらないのだろう。その事実はこの先どう転んでも切ないことで、ナイフでえぐられた痕みたいに、赤々と、じっとしていつまでも心に迫ってくるだろう。それでも、暮らしという風の吹く場所で、あの子をすきだという気持ちは確かに私のせかいの中心を離れていった。音もなく。幸福な結末であったかのように穏やかに。
今でもひどく怯える日にはあの子だけを思い出して手紙を書きたくなってしまう。きみはぼくのことだけ考えたりしない、ぼくが落ち込んでいても気がつかない、だから、きみだけが助けてほしいよ、きみだけが大丈夫といってほしいよ。こんな気持ちって、変かな
彼はあまりにもとおいひとだった。流れ星のようで、となりに座っていても、すぐこの世界から身を引いてしまいそうなひとだった。
すこしまえに、すきだった子の話を聴いてくれた友だちがいた。彼がいつも苺を買って待っていてくれたことを話したら、なんだか泣きそうだ って友だちは言ってくれて、そのことに私はずいぶん救われたのだとおもう。
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