きろく
おじいちゃんおばあちゃん、両親、おとうと、実家の猫たち、羊たち、友だち、学校の先生、すきなひと、すきだった子、すきだったひと、地域のおじさんおばさん、同級生、みんなしあわせに長生きしてほしい 誰も失いたくない
きろく
おじいちゃんおばあちゃん、両親、おとうと、実家の猫たち、羊たち、友だち、学校の先生、すきなひと、すきだった子、すきだったひと、地域のおじさんおばさん、同級生、みんなしあわせに長生きしてほしい 誰も失いたくない
先週仕込んで冷凍してあったバターチキンカレーをレンジで温めた。
こんなに、気狂ったようなあかるいオレンジ色をしているのに、あまくてやさしい味をしているなんて、バターチキンカレーは何だかとても特異なものに思える。ひといきに食べてしまうつもりだったのに、名残惜しくてまたすこしだけ残してしまう。カシューナッツペーストを使っているからなのか、ごはん一膳分ぐらいの量でも乱暴な満腹感をおぼえる。
じぶんの壊れかけている部分を誰かに見せたくなくて(やさしいひとたちばかりなので)、ずっとここにひとりいる。さびしい、こころの中ではつい先週まで会っていたひとたちに「あのね、」って話しかけたり、泣きついたりして、ワインを飲んで、夢をみる。夕べの夢では犬を2匹迎えいれて、散歩という日課が増えるねって家族と話していた気がする。父がとつぜん、足先がしびれると言って慌てたところで目が覚めた。なにもなくて、どうしようもない雨の日、午前5時ごろに起きてしまうことは、切ないけれど甘やかな心地になる。
たまらなく泣きたくなって、ご飯なんて食べたくなくて、お酒も飲みたくないのに、なにもかもきのうと一昨日とおなじように過ぎてしまう。なんとなく予感がする。いじけているのもあと数日だろう、あと数日したらいよいよじぶんの湿っぽさにも飽きて、誰かに連絡するだろう。
ひとりの殻に閉じこもっているときほど、ひとりではできないとてもよいことを思い付いてしまう。また雨が降ったら、がっこうにおいでよ、ラウンジや、最上階の教室でトランプをしよう。早く友だちに言いたい。
Sadurnのfaceⅱと、haruka nakamuraさんの音楽のある風景と、Talking HeadsのThis Must Be The Place わたしのなかのおおきな感情を、わたしより鮮明に覚えていてくれる曲だとおもっている。サブスクリプションでランダムに音楽をかけていたらこの3曲が連続で流れてきて泣いてしまった。
三日間がっこうへいって、四日間引き篭もる。そんな暮らしでいいはずがないのだけれど、そうするしかなくてまた日曜日になる。本をずっと読んでいる。もうすぐ来月の発表に向けた準備をしないといけない。
雨予報を待っているのに、けっきょく雨雲は午後にならないとやってこないみたいだ。ヘッドホンで雷雨の音を聴いて、体育座りになる。夕べはすこし気張って、親への返信もしたし赤ワインも飲んだ。お風呂であいかわらず雨の音を流しつつ文庫本を読んでいたら、腐っていてはいけないと思い立って、日記にこれからのことを書いた。うごき出せるとおもったけれど、今朝起きたらまたおなじ。かなしくて煩わしくて、誰にも会いたくない、なにもしたくない。
部屋から出るつもりもないのに香水をつけた。バニラとミントの香りがくだらない所作ひとつひとつにも薫って、なさけない。
ムクさんは落下するように泳ぐ。毎日お水をかえているけれど、やっぱり元気がなさそうだ。どうしてあげたらよいのだろう。
腰がいたい、今日は雨が本降りになってからモモ肉を買いにいきたい。唐揚げを食べたら元気になれるかな、夜は今泉力哉監督の情熱大陸だからがんばって起きていたい。
「パーマネント野ばら」を観る。
母のすきな映画のひとつで、なんとなくの温かい空気感だけを予感しつつ鑑賞した。おもっていたよりも陰があってひんやりとした作品だったけれど、痛いくらいに誰かを愛する女性たちの姿が心に残る。エンドロールをとおくで聞きながら、ベランダに出て、あとからあとから涙がでてきて。また世界にひとりっきりみたいな朝だった。ベランダでハンモックチェアに揺られていると、いとも簡単にこころの中の日常を切り落としてしまう。
雨の気配を感じるたび、パーカーのフードをかぶってベランダへ出る。柵に打ち付けられてこちらへ跳ねてくる雨の飛沫を、うれしくなって浴びる。死にたくなりながらいきいきしていてふしぎだ。
「パーマネント野ばら」で菅野美穂がすきな人と温泉に行く約束をして、いそいそとひとり先に向かうシーンがある。鈍行列車のボックスシートにひとりで座る。窓辺は日のひかりに溢れている。その光景を見て、鈍行列車で日向を見つめながらすきな子に会いに行ったいくつかの日のことを思い出した。
すきなひと。もうすきでいるのに疲れたひと。日々はかなしいほど彼へのあこがれだけでできていた。かんぜんに切りはなせる感情など人生にひとつだってないのだということを、このところ思い知る。
「過去」は、命日のようにわかりやすい決定的な終点もなくいつの間にか「過去」になる。今あの子をもうすきではなくても、誰か他にすきなひとができても、あの子をすきになった気持ちはきっといつまでもかわらないのだろう。その事実はこの先どう転んでも切ないことで、ナイフでえぐられた痕みたいに、赤々と、じっとしていつまでも心に迫ってくるだろう。それでも、暮らしという風の吹く場所で、あの子をすきだという気持ちは確かに私のせかいの中心を離れていった。音もなく。幸福な結末であったかのように穏やかに。
今でもひどく怯える日にはあの子だけを思い出して手紙を書きたくなってしまう。きみはぼくのことだけ考えたりしない、ぼくが落ち込んでいても気がつかない、だから、きみだけが助けてほしいよ、きみだけが大丈夫といってほしいよ。こんな気持ちって、変かな
彼はあまりにもとおいひとだった。流れ星のようで、となりに座っていても、すぐこの世界から身を引いてしまいそうなひとだった。
すこしまえに、すきだった子の話を聴いてくれた友だちがいた。彼がいつも苺を買って待っていてくれたことを話したら、なんだか泣きそうだ って友だちは言ってくれて、そのことに私はずいぶん救われたのだとおもう。
ゆうべ友だちと話していて、「なんだかすごく覚えてる」もひとつの感情なのかなと思った。 彼女たちは記憶と感情がいつも明確に整理されているというか、感情のつまみを引いて記憶を取り出すような話しかたをしていたのだけれど、私は思い出したなにかがうれしかったとか悲しかったとかではなくて、た...