月曜日

とてとて27

心のさまは日常のいくつもの断面とかさなる。
不安になるくらい静かな鼓動が、なにかの拍子に怖いくらいうるさくなること。
明かりをつけても手をかざしても熟睡したままの金魚が、ふと眼をはなした隙になんでもないような顔でわたわたと泳いでいること。
ベランダのひなたで本を読んでいて、うたた寝から覚めた頃にはすっかり翳って手足が冷えていること。
さっきまで程よく煮えていた野菜が、次の瞬間につよい匂いを放って焦げ出すこと。
思い出したときにはもう花が枯れていること。
空き缶回収車が過ぎ去っていること。

あんなに生きていけると思っていたのに、あれ、あれ、と些細なつっかえを気にしているうちに手の施しようがなくなっている。日常のぜつぼうに決定的な間違いなんて見つけられない。だからただしく編み直すのにひどく時間がかかる。

お酒はのまなくてもまだ平気だ、眠りの質もよいし無茶苦茶なこともしていない。
でも、まともな頭で向き合う生活はすごく長い。泣きたくても勢いがないから泣けないし、ぐずぐずうずくまっているばかりだ。

おととい、きのうと友だちにたくさんの話をした。友だちの話もたくさん聞いた。カラオケに行って片想いをみんなで歌った。帰りは大粒の雨が降っていた。
今日までの一週間に、わたしはいろんな顔をしていろんなことを喋った。信じられなかったはずの一週間をきちんと生きて今もここにいて、そういうことがやっぱり明日からも繰り返されるのだと思うと、途方もない心地がする。怖いことばかりではなかったのだから、明日からだってうつむく必要はないのに、ひとりで考え込むとどうもよくない。


すきだったのに想いを断てなかった人がいるというのは、案外しあわせなことなのかもしれない。心を完全なままどこかへ預けたりとり戻したりすると、いつも乾いているか、いつも濡れているか、いつもここにあるか、いつもなんにもないか、みたいなことばかりで、とてもひとりでは面倒を見きれない。心の一部だけはあの子の元でずっと笑っていて、わたしはとり残された'あまり'の方なのだから、ぐしゃぐしゃになってもいいのだ。そう思っているほうがずっといい。

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とてとて28

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