月曜日

とてとて26

ふしぎな夢を見た。
みやこが冷たくなったあと、金魚に姿を変えて、生死をまきもどすように、花の蕾がひらくように泳ぎ出すのを見届けた。
ことばで説明するとしらじらしく感じられるけれど、私の中ではかけがえのない光景だった。たいせつな存在がからだを持っているということに、いつまでしがみついてしまうのだろう。

年の瀬のライブに向けて、毎週音合わせをしている。
いっしょに出演するEさんが無音で踊る時間を、ぼんやりながめているのがすきだ。
きょう、Eさんはからだを火照らせながらおどり泣いていた。あんなにきれいに涙を流すひとをはじめてみた。今回のお誘いに対しては、まったくいい意味で、なにかをおおきく期待するというようなことがいっさいなかったのだけれど、もう、今日でじゅうぶんだ、と思った。窓から小粒のひかりがいくつも揺れていた。

Eさんを見ていると、Eさんにからだがあってよかった、と思う。そんなEさんの心をすこしでもひきだせるような音を鳴らすために(ときに静寂を生みだすために)、いま私にはまだからだが必要なのだ、とも思う。でもからだが無くても、からだが無いなりにみんな自由にやれているような気がする。すきに夢にあらわれたり、すきにひかりを揺らしたり、すきにもの音を立てたり、ささやいたり。
そんな風に思えたきょうの空気が、22日、来てくれた人たちにも伝わるのならどれだけうれしいだろう。夕べまでの錆のような重たい不安は、おなじ重みでも、もっとしっとりとした祈りに変わった。いまの私にはきちんとはこび届けられるものがある。それをそばで見ていてくれる存在がいる。

時間がたしかに過ぎてゆく。数えきれないほどの〈あの日〉から、一歩ずつ離れてゆく。さびしいのはどんな日でもかわらない、これからもずっとかわらない。なにを失っても、なにを得ても。樹洞のように傷ついた感触をたしかめて、かわらないさびしさに縋りながら、すくわれながら、なつかしい来訪者を待っていよう。いつの日も木のように居られたらいい。

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とてとて28

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