水曜日

古いオルガン

書き記しておきたいことがさまざまあるのだけれど、うまくことばにならない。
断片的な記憶。

先週は西の町で祖父母と過ごしていて、もう何十回と訪れていながら一度も触ったことのなかったパイプオルガンを弾かせてもらった。ふたつのペダルをボートのようにゆっくり絶えまなく踏み込みながら鍵盤に手を置く。まっすぐ、身体の中心までしっかりと響く音。とてもちからづよく、けれどどこまでもやさしく。

祖父は教会でよく讃美歌の伴奏を弾いていたらしく、徐に楽譜をとり出して讃美歌310番を弾いて聴かせてくれた。奥の台所で食器を洗っていた祖母がその音色に声をかさね、秋の夜を聖なる空気で充していた。ほんの数分の、うっとりするような時間。うちのめされるほどにうつくしい時間だった。

祖父母と別れてからもあのオルガンとハーモニーが耳の奥にこだましている。あの日を超えるような音楽はもう二度と聴けないようなそんな気持ちにさえなる。祖父母の奏でる音はあたたかかった、さりげなくて、ただ純粋に音に肩寄せて、慈しみの心と祈りだけで紡いでいるような音だった。

私はこの手と声でなにを奏でられる。
よろこびとともに、自分の乏しさを実感する日だった。じぶんの痛みに固執して、擦り切れたことばをいつまでもくりかえして、なにも見えていない私になにが遺せるというのか。

古いオルガンと祖父母の讃美歌は、古い鏡のおくの景色のようにいつまでも私を見ているようだった。やさしくてきびしい願いを託されたような心地。私は私の編みちがえた目をひとつずつほどいてゆかなければならない。たまらない孤独と焦り、でもこうでもしなければ、私は私を見損ないつづけるような気がしてならない。

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