土曜日

とてとて15

別の場所で無造作につづけていたブログをやめて、自分がいかに黙っていられなかったのかを実感した。近ごろはもうとてもことばにできないよ、という思いで過ごしている。ほんとうのことは沈黙でさえ触れられないもの

夜、実家から届いた荷物にはいきいきとしたみどりたち。うれしく、あまりにもまぶしくてため息がでた。私の生まれた土地の生命力に打ちのめされてしまう。
食用ほおずき、今季最後のトマトたち、野沢菜、水菜、蕪にかぼちゃに青梗菜。
せいいっぱい迎え入れるのだ、と居直って竹ざるに野菜を乗せた。
夏、離れた街まで友だちとドライブをしたときにちいさな商店で買った竹ざるはかわいらしくてよい色をしている。この竹ざるに私が息を荒くしていたそばで、友だちふたりは大昔の雑誌を見ていた。手に取るたび過ぎた季節を思う。きっと向こうにとっては何気なかったあの日のことが私には今もじんとうれしくて。きょう名前を呼びあえるひとりひとり、どこからか告げられた順番にしたがってとおくへ行ってしまうのだと思うと目を瞑りたくなる。
これ以上人間をすきになりたくなくて、むりやり植物図鑑をひらいて編み針をたぐり寄せる。たのしいからではなく、かなしくなりたくなくて無心でつづけていることばかりだ。

かざぐるま


泣いちゃいけない 叫ぶなんてもってのほか

私はまだあなたを見つけられていないのだから

押し黙り、いろとりどりの痛みならべて

風車をもって待っている


泣いちゃいけない

草のかすめる音ひとつだって

取りこぼしてしまわないように

あなたから放たれる風が迷いはてて

私を選んでくれるまで

私はここで押し黙り、いろとりどりの痛みならべて

風車をもって待っている

水曜日

古いオルガン

書き記しておきたいことがさまざまあるのだけれど、うまくことばにならない。
断片的な記憶。

先週は西の町で祖父母と過ごしていて、もう何十回と訪れていながら一度も触ったことのなかったパイプオルガンを弾かせてもらった。ふたつのペダルをボートのようにゆっくり絶えまなく踏み込みながら鍵盤に手を置く。まっすぐ、身体の中心までしっかりと響く音。とてもちからづよく、けれどどこまでもやさしく。

祖父は教会でよく讃美歌の伴奏を弾いていたらしく、徐に楽譜をとり出して讃美歌310番を弾いて聴かせてくれた。奥の台所で食器を洗っていた祖母がその音色に声をかさね、秋の夜を聖なる空気で充していた。ほんの数分の、うっとりするような時間。うちのめされるほどにうつくしい時間だった。

祖父母と別れてからもあのオルガンとハーモニーが耳の奥にこだましている。あの日を超えるような音楽はもう二度と聴けないようなそんな気持ちにさえなる。祖父母の奏でる音はあたたかかった、さりげなくて、ただ純粋に音に肩寄せて、慈しみの心と祈りだけで紡いでいるような音だった。

私はこの手と声でなにを奏でられる。
よろこびとともに、自分の乏しさを実感する日だった。じぶんの痛みに固執して、擦り切れたことばをいつまでもくりかえして、なにも見えていない私になにが遺せるというのか。

古いオルガンと祖父母の讃美歌は、古い鏡のおくの景色のようにいつまでも私を見ているようだった。やさしくてきびしい願いを託されたような心地。私は私の編みちがえた目をひとつずつほどいてゆかなければならない。たまらない孤独と焦り、でもこうでもしなければ、私は私を見損ないつづけるような気がしてならない。

木曜日

とてとて14

もうどうでもいいよう

わかられては堪らないよ

手紙も電話もいらないよう

とおくつながっているなんて幻だよ

とてとて28

ゆうべ友だちと話していて、「なんだかすごく覚えてる」もひとつの感情なのかなと思った。 彼女たちは記憶と感情がいつも明確に整理されているというか、感情のつまみを引いて記憶を取り出すような話しかたをしていたのだけれど、私は思い出したなにかがうれしかったとか悲しかったとかではなくて、た...

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