金曜日

とてとて 3

無意識に、歯をものすごく食いしばっていた。今日はほんとうによくない、よくないよくない、ああこんな時間だと思って時計を見てもまだ思っていた時間より90分も前だったりする。悲しいわけでも苦しいわけでもない、心持ちひとつで青魚も切り刻んでしまえるような、とにかく危うい状況にいる。
夜、寝支度を終わらせて外に出た。呼吸と変わらないような外気のぬるさ。でもまだかろうじて風があり、きもちよく深呼吸をする。街灯の光から隠れるように、知らない住宅のボイラー脇にしゃがみ込む。夜があってよかった ときどき、奥の方から滲んでくるように泣いた。夜が私の涙を搾りとる。一昨年出逢った猫はもういない。まだまだすなおに歩いてゆけそうだったけれど、家の前をしばらく往復してすぐに戻ってきた。今日はお酒を呑みすぎた。

水曜日

とてとて 2

 今日もゆっくりと雨が降る。朝起きて、土鍋でお米を炊いて、納豆といっしょに食べて支度をする。花が家にない。金魚のムクさんはまだ左の胸鰭を閉じている。いたいね 私も、左の胸がいたいよ 寄り添う、ムクさんがつらいのは私のせいなのに、それでも寄り添う。

 講義を三つ受けた。現代文学の話はやっぱりほっとする。ぐんぐんはいってくる。国木田独歩「春の鳥」について。白痴の男の子が天主台にまたがって優しい声で歌う、「空の色、日の光、古い城あと、そして少年、まるで絵です。少年は天使です」。彼は鳥の真似をして崖から落ちて死んでしまうのだけれど、私の中に浮かび上がってくるその子のイメージと映画『オーバーフェンス』で鳥の求愛を真似て踊る蒼井優がかさなる。鳥と狂気の同調性、鳥と純白の親和性。

議論の文脈で、エドワード・アビーの『砂の楽園』という作品を知った。

 名づけられた事物よりも、名づける行為のほうに関心が向かうのだ。そして名づける行為の方が、事物よりもリアルになる。かくして、世界はふたたび失われる。いや、世界は残る。……失われるのは、ぼくらのほうだ。

 水曜日は、死ぬことや脳科学のこともいっぺんに学ぶからくらくらする。頬にあたる雨の芯がしっかりとしていて安心する。若葉が今日も濡れていて、この頃の欅はほんとうにきれいだと何度でも思う。

火曜日

とてとて 1

今日も今日とてお酒を呑みながら夕暮れどきをぼうと過ごしている。
手元にいくつも日記があって、紙に書いたり頭で綴ったりブログに書いたりとその日の気分であちこち書き散らしてしまうのだけれど、たとえばすべての場所でおなじ日の日記を何度も書いたらどうなるだろう。その日の思い出しかたが増えておもしろいかもしれない。複面体になった過去は、ふたたび光を浴びたときに乱反射してきれいかもしれない。

今日は街中が濡れていた。地面から空のさきまでずっと濡れて、自分が水槽のメダカなら空まで泳げたかもしれない。かちかちと重いあたまを抱えながら大学へ向かう。途中、坂から遊歩道を覗き込むと木々がうねうねと生い茂っていた。若葉の、まばゆいこと。その濡れて深まった黄緑のうつくしいこと。すいすい私の横を通り過ぎてゆく人々、こんなにきれいな光景を目の当たりにしてもみんなぐんぐん坂を登っていってしまう。

夕暮れ、帰ってきてすぐジンジャーハイ。ビールが呑みたい。ハイボールは明日まで我慢する。しゃぱしゃぱとお風呂に入り、またアルコール。マリブを炭酸でてきとうに割る。今日はぐるぐるする。また大したこともできずに空が暗くなる。ほんとうは考えていたのだ、ホッキョクグマのこと、まわる風車のこと、鳶のモビールのこと。
せつない、体が冷えないよう慎重に夜を過ごす。

とてとて28

ゆうべ友だちと話していて、「なんだかすごく覚えてる」もひとつの感情なのかなと思った。 彼女たちは記憶と感情がいつも明確に整理されているというか、感情のつまみを引いて記憶を取り出すような話しかたをしていたのだけれど、私は思い出したなにかがうれしかったとか悲しかったとかではなくて、た...

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