デキャンタということばを年始とお盆明けの数週間だけときどき思い出して、ひとり暮らしの流れを掴むころにさらりと忘れてしまう、というようなことをここ3年ほどくり返していた。
一年の生活のなか、実家の野菜を仕入れているお店で食事をするときにしかデキャンタというものに触れる機会がない。それはワインを数人で飲めるぶんだけ移し分けるためのガラス容器のことで、私たちのよく行くそのお店ではチェイサーもおなじ容器で提供される。デキャンタ、という響きとそのフォルムがすきで、吊り下げ電球と薪ストーブの炎とで上からも横からもやわらかく照らされているそれを、盛りあがる大人たちの話を傍耳にききつつぼんやり眺めているとたまらなく安心してくる。そうした瞬間にひとりおおげさに、静かに平和を思う。
今年あたらしかったのは、はじめて弟がその食事会に居合わせて心いっぱいに料理を堪能していたこと。それから、デキャンタもうひとつもらおう、それほんとにデキャンタっていうの、デキャンタだよ、デキャンタかなあ、という会話をしたこと。何気ない、なんでもないことばの行き来をひとりになってから擦り切れるくらい思い出す。なんでもないのにそれだけでほんのり満足してくる。
年始親戚一同と泊まりに行ったホテルのロビーに小さなバーがあって、お酒の味を覚えたばかりの弟はやけに目を輝かせていた。そのバーの名前である"voyager"の綴りをみて、ボヤゲー?と首をかしげる弟に、ボイジャーだよ、と教えたのだけれど、もう覚えていないと思う。けっきょく時間がなくてそのバーにも行けなくて、だから今度弟と会うときに、ウイスキーの美味しいバーに連れて行くのをひそかに楽しみにしている。ご飯もお酒もほんとうに美味しいものをほんとうに美味しいという、にこにこいろんなことを話す、弟の笑うきっかけになりたい。今日はそんないつかの妄想をふくらませてひどく呑気に過ごしていた。
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