どれくらい泣いてきたかとか、どれくらい揺らいでいるのかとか、そういうことを話しても、その頻度や程度が似ていても、やっぱり人と人は、どうしても人と人なのだろう。あかるい部屋で、日が暮れる頃には閉ざされてしまうその部屋で、するすると糸を縫うようにことばを重ねる時間は、きもちがいいのに終わったあと無性にさみしくて、また私は 人間を失敗したな と自分につぶやいてとぼとぼ帰るしかないのだった。ゆうべ泣いていたって、眠れなくたって、それは私そのものをしめす情報にはなり得ない。もっとあいまいな、空気みたいななにかがほどよく織り混ざったり、反応したり、かろうじて分かち合うということは、そういう類のことなのだと思う。
帰ってきて部屋が暖かいままで、家を出る時に暖房を消し忘れていたのだと気づく。居間でぼんやりビールを開けたけれど、見上げた先の時計のさす時間がうそみたいで、うそみたいだなあ とまたビールを飲む。夜の8時30分をしめすその振り子時計が、中学校の教室の朝8時30分をしめす味気ない電波時計とふいにかさなって、あの頃のそのじかんは朝読書のまっただなかだったなあ なんてことを思い出す。
串田孫一「若き日の山」を、盛岡で手に取った昨年の11月からだいじに大事に読んでいる。『笛』という、彼の息子リオのことを書いた文章がたまらなく胸に残る。リオは、リオは、という書き出しに、なんとも言いがたい切なさとあたたかさを感じて、彼はきっと実の息子のまえでもとてもちいさく咳をするような人なのだろうと思った。こちらまで泣きたくなってしまうのは、彼の文体の作用によるものなのか、私の個人的な状態のせいなのか、わからない。
リオは少女と共に彼の山小屋を訪ね、父親に笛を贈り、帰ってゆく。ふたりが山を降りたあと、彼は農家から子山羊を一頭譲り受けて、しばらく過ごしたあと、やっぱり農家へ帰してしまう。そうしてまたひとりきりの小屋に帰ってゆく。
もう小屋に待っているものは誰もいない。山羊もいない。冷たい秋の雨に濡れても、急ぐ理由は何にもない。濡れた着物を焚火に乾かしながら、また笛を鳴らすだけである。
すがるものを探すように、ひたすら本を読んでいる。ときどきギターを弾いたり、手帳をひらいたりはしてみるけれど、たよりなくてまた本をひらく。
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いつか、いつになるかわからないけれど、そして誰の隣でそうなるのかもわからないけれど、おおきな声で新生児のように泣く日が来ると思う。死や、世界の広さや、すきな人をすきでいる堪らなさや、恋しさや、懐かしさや、悔しさや、ほんとうに言い尽くせないくらいの感情なにもかもを吐き出すように泣く日がきっと来るのだろうと思う。その日私はまるで汽笛を鳴らす船のように果敢なさまで、ながくながく、その瞬間にだけ生まれる空間を見つめて、網膜にうつりこむ光すべて吸収するように泣くのだろうと、思う。
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みやこのことをかたときも忘れない。私以外のひと全員がうんざりしはじめる頃もきっとおなじようにみやこの名前を呼んでいる、そうしてみやこの隣にすこしずつ他のだれかも並んでゆく、いつか私自身も。死というものは、ずっとすきだっただれかの存在を一気に引き裂いてしまってつらい、死んだあとになってたまらなく歌にしたり書きとめたりしていることが浅はかなことだと思われてもきっと仕方ない、それでも死がもたらす切なさと甘やかさにすっかり縋って、許されているような心地で、いのちを讃えるようなことばかり日々に見出してしまう。かなしさときもち悪さと、わずかな安堵と、かわりようのないだれかへの思いとで均等に日常はめぐる。
みやこのことが恋しくて、くるしむ覚悟で動画や写真を見返すとき、なるべくみやこの眼や鼻だけに集中して、 ただの猫 獣の一種のうちの一個体 ほんの一瞬私たち人間と偶然交わっただけの儚い生きもの と思うようにしてみるのだけれど、やっぱりそこに映るのはいつでも世界にたった一匹のみやこで、たったひとりのみやこなのだった。思えばきりがないよ、あなたにほんのわずかな血肉だって捧げられなかった、あなたは私たちからなにも奪わずにいなくなってしまった。だれにもなにも訴えずにひとりでいってしまった。その気高さが私は今もたまらなくさみしい。